「……ん」

 ふと気配がしてエイダは顔を上げた。夕方、ちょうど森の見回りを終え、森小屋の近くの泉で髪を解いている最中のことだった。
 人間の気配でも魔物の気配でもない。殺気がなく、どちらかというとこちらに好意を抱いているようだ――姿かたちが見えなくとも、長く森の中で暮らしていると、そんなことまで肌で感じ取れるようになっていた。
 もしかしてと思い、その気配の持ち主だと思われる主の名を呼んでみる。

「……シロ」

 呟き程度の声量だったのに、気配の主は反応した。背の低い木が密集している場所から、さっと白い大きな毛玉が飛び出てきてエイダは腰かけていた岩の上から降り立った。髪留めを失っている長い茶髪が、反動でばらりと背中に落ちる。
 気配の正体は、やはりシロだった。白い毛並みは、薄暗くなっている森の中でも輝くように美しい。シロはエイダに近づくと行儀よく座り、首だけ後方を振り返った。予想した通り、暗がりの中から一人の少年が現れる。シロの友人だ。少年は微笑みながらエイダに近づくと、ありがとうとオオカミ犬の頭を優しく撫でた。

「こんばんは、エイダさん」
「キニスン。こんばん……」

 そのときエイダはハッとした。自分はいま髪を下ろしたところだったのだ。反射的に片手を首元に持っていって確かめると、やはり結われていない髪が流れていて、まさかこのような無防備な姿を男性に見せるなんてとエイダは慌てた。握っていたはずの髪留めは手のひらの中に無く、立ち上がった時に地面に落としたのだろうとぐるぐると首を回して足元を探すが、植物と同系色の細い紐が夕暮れの森の中で簡単に見つかるはずもなく、そうこうしているうちにキニスンに不思議そうな声をかけられてしまった。

「どうしたんですか」

 顔が熱くなる。どうしていいか分からなくなって、エイダはうなじのあたりの髪を片手で乱暴に握った。かろうじて一つに束ねられたが、これではいつまでも手が後ろに向いたままだ。
 エイダの一連の行動を見て、頭の上にクエスチョンマークを付けていたキニスンだったが、その仕草からエイダのしていることに思い当たったのか、少し笑いたそうにして再び口を開いた。

「あの……もしかして、髪留めを探しているんですか」

 暗がりの中では顔が赤くなっているところまでは分からないだろうが、自分の行動を恥じて、エイダはうつむいた。キニスンは少しのあいだ黙っていて、そのうち「暗くてよく分からないね」と溜息交じりに呟いた。どうやら視線で地面の上を探してくれていたらしい。
 気を遣わせてしまっている。エイダはたまらず顔を上げて、ごめんなさいと謝った。

「いいの、後で探します」

 エイダの言葉を聞いたキニスンは困惑した表情になる。

「でも……そのままでいるんですか?」

 手で髪を押さえたままで過ごすのかという問いだ。エイダは、それは……と消え入りそうな声で呟いて、そっと手を元に戻した。再度、長い髪が重力のまま背中に流れ落ちる。
 木の葉のざわめきと鳥の鳴く声が響き渡る森の中、二人の間には妙な沈黙が続いた。シロは少年少女の挙動が意味不明らしく、交互に二人の顔を見比べている。オオカミ犬にまで気を遣われるなんて、初めから変な行動をとらなければよかった……とエイダは落ち込み、早く小屋の中に閉じこもってしまいたいと心の中で祈る。
 しばらくして、静寂に観念したらしいキニスンが言った。

「エイダさん。ぼくは、あなたの髪を美しいと思っています」

 始め、何を言われたのか分からず、顔を伏せたままエイダは彼の言葉を頭の中で反芻した。そしてどうやら自分の髪を褒められたのだと気付くと、先ほどよりも遥かに大きな混乱が押し寄せてきて、手足が小さく震えるのが分かった。
 黙ったままでいるエイダにかまわず、キニスンは続けた。

「ぼくは、あなたが髪を下ろしたところを見たいと思っていました」

 これはまさか、とんでもないことを言われている――
 パニックに陥り、エイダは両手をぐっと握りしめると、ぶんぶんとかぶりを振った。

「こんな姿を見られるなんて、みっともないことです」

 無防備な姿をさらしている己の姿がたまらなく恥ずかしく、吐き捨てると、キニスンは驚いた声を出した。

「みっともない?」
「私は防人です。周囲に舐められないように、いつでもきちんとした身なりを忘れるなと父から言われていました。だからこのような姿をあなたに見せるのは私にとって恥ずべきことなのです」
「そうなんですか」

 相槌は打ってくれたが、その声音にどこか落胆が含まれているような気がして、エイダはおそるおそる顔を上げて少年を見た。
 キニスンは悲しげに笑っていて、エイダと目が合うと、申し訳ありませんでしたと頭を下げた。

「軽率なことを言ってしまいました」

 どこか傷ついた面持ちでいる少年に、焦りを覚えて首を横に振る。

「け、軽率ではありません。他の人にとっては自分勝手な誇りです」
「いいえ」

 キニスンは微笑し、

「立派な誇りだと思います」

 そう、しみじみと言う。
 エイダは何が何だか分からなくなってきて、震える片手を口元にあてた。なぜかじんわりと鼻の先が熱くなり、目の前で水で歪んだ。目頭から涙が溢れているらしい。
 どうして泣くのだろう、これではますますみっともない姿を少年に見せつけるだけだ――逃げてしまおうと踵を返し、足を踏み出すと、それを分かっていたかのようにキニスンはエイダの腕をぐいと引っ張った。振り払おうとした矢先、背後から抱きすくめられ、エイダは息を止めて硬直した。

「…………
 キ、ニ」
「ぼくはたぶん、あなたの本当の姿が見たいんです」

 肩口に口元を当てている彼の、くぐもった声が間近から聞こえてくる。

「ぼくと同じく自然を愛するあなたの、ありのままの姿を」

 それは、エイダが初めて聞く、彼の切実な言葉だった。

「それは、あなたの誇りを打ち壊してしまうことになるかもしれない。けれどぼくは、あなたのことが好きだから、その誇りをあなたから少し奪ってでも、本当のあなたの姿を見たいんです」

 少年の左腕が持ち上げられ、顔の傷に、その指先が微かに触れた。
 途端、走り出して小屋まで行くと、エイダは中に飛び込んでバンとドアを閉めた。突然逃げた少女に驚いたらしいシロの吠える声が聞こえてくる。
 エイダは息切れをしながらドアに背をもたれて、頬を伝っていた涙を手の甲で乱暴に拭った。薄暗い部屋の中、ずるずるとその場に座り込み、すすり泣きが聞こえないよう手のひらで顔を覆う。
 ドアの向こうに、少年が近づいた気配があった。

「……エイダさん。ごめんなさい、軽率でした」

 その悲しげな口調に、エイダの胸は張り裂けそうになる。軽率なのは自分の方だ。本当に申し訳なく思うのだが、口に出したらますます泣いているのがばれてしまう。だから何も言うことができなかった。

「軽率でした……。けれど、それでもぼくはあなたが好きです。だから……」

 少年は、そこで言葉を飲み込んだ。

「……
 また、来ます」

 とても弱々しく一言呟いて、少年はドアから離れた。シロ、行くよという声が聞こえ、小屋の前から二人の気配が遠ざかっていくのが分かった。

 ああ、どうしよう。ここで彼を引き止めるべきなのだろうか。どうすればいいのだろう。もし少年に心を許したら、きっと独りでは生きていけなくなってしまう。孤独でいた自分が人の温もりを知ってしまえば、これほどまでに愛おしい森や動物たちを全身全霊で愛せなくなる。森は、どんなに自分が愛し続けていても、その恩恵をただ自分の一人のためだけに返してくれるわけではない。自然は万物に等しく優しいからだ。その事実が少し寂しくても、我慢をしていた。森はすべてに愛を注ぐのだから、彼らの平等な優しさを少しでも受け取ることのできる自分はなんと幸福なのだろうと考えるようにして。
 しかし、人間は“唯一”という言葉を知り、ただ一人のためだけに愛を注ぐことができる。そんな重たい愛を知ったとき、自分は果たしてどうなるのだろう。キニスンは唯一の深い愛をエイダという女に注いでくれるはずだ。そんな人を求めるようになれば、いつでもその男に逢いたいと願うようになる。そのときの自分はこの森を一時的にでも去ろうとしてしまうだろう、彼が同様の想いから己の森を抜け出して、好きな人のいる深き森を訪れたように。

 ああ。
 エイダは力なく床に座り込んだまま、うなだれた。

 果たして、あと数秒後の自分は、ここに同じ状態で泣きながら座っているのだろうか。
 それとも、ドアを開け放って少年の背中を追いかけているのだろうか。

 分からない。